若いということが、人を輝かせる――
そして若ければ若いほど、
その輝きに私たちは惹きつけられる。
赤ちゃんは可愛くて、誰でもみんな、
無条件に愛おしく感じてしまう。
けれど、歳を重ねるごとにその輝きは、
薄らいでいきます。
どうして時の流れは、
こんなにも淡々と、そして確実に、
この輝きを消し去ろうとするのでしょうか。
でも逆に、キラキラした老人がいたとしたら、
違和感を感じてしまうでしょうけれど。
それでもやっぱり、輝いていたみずみずしい記憶は、
消えることなく、心の奥底に眠っています。
そして、願ってしまう。
「もう一度、あの頃のように輝きたい」と。
思い返すと、私たちが通ってきた時代は、
踏んだり蹴ったりの繰り返しでした。
経済が発達していくなかで、
街には人があふれ、
毎日は忙しく、競争のような日々が続いていました。
その同じ環境にあっても、
自分を信じ、耐え抜き、
内側から自分を磨いていく人がいる一方で、
私は、無自覚のうちにいつの間にか、
自分の心を置き去りにして生きるようになっていました。
そして疲れ果てた時、
ふと目に入る若い人たちの輝きが、
やけに眩しく感じるのです。
私にもあんな時があった――
そんな心のつぶやきが、
ため息となって漏れてしまいます。
集団の中で過ごすうち私は、
否応なく自分の気持ちを抑え続けてきました。
そして心は擦り減り、感情も鈍くなっていきました。
でも五十代に入るまで、それは普通のことだと思っていたのです。
人をうらやみ、やる気が出ない自分を責めながら、
毎日ぼんやりダラダラ過ごしていました。
「ああ、なんて怠け者なんだろう、私って」
無気力な表情を浮かべた自分が、
鏡越しに見えるたびにそう思っていました。
季節が巡っても、どんな素敵な歌を聞いても、
感動できないのです。
心が動かないから、この状況から抜け出したくても、
行動を起こせなかったのです。
そんな私にも、幼い頃はたくさん夢がありました。
歌手になりたいとか、いろいろな国を旅行してみたいとか…。
ただ思い描くだけで楽しかったのですが、
当時は、男性優位の世相もあり、
「女の子なんだから」と、
慎ましいことが美徳とされていました。
弟がいた私には、夢の多くを諦めることが、
初めから用意されているかのようでした。
そうして、願いが一つ一つ消えるたびに、
夢を持つことは、現実逃避でしかないと思うようになりました。
入学すれば、詰め込み教育で偏差値での評価に、
打ち砕かれる希望――
入社をすれば、学歴で線を引かれ、
積み上げた努力も、報われるのはわずかだけ――
「どうでもいい」
「どうせ、やったとしても」
そうして傷つきそうな状況を回避するために、
現実から目をそらしてきました。
そんなふうにして、自分でも気づかないうちに、
少しずつ心がすさんでいきました。
そんな私は、誰が見ても小憎らしかったことでしょう。
傷づくような言葉を聞いたり、
いたたまれない状況に追い込まれたこともありました。
「初めから希望を持たなければ、失望することもない――」
輝かないことが、私の処世術だったのです。
ところが、そんな私にも転機が訪れました。
五十代に入り、一人で旅行に出掛けた時のことです。
少し時間があったので、空港の書店を覗いてみました。
そこで、”怠惰な生活から抜け出すために”
という小冊子が目に留まりました。
怠け癖の改善に役立つかもしれない――
私はただ、活力ある日々を過ごせられるヒントがあれば、
それで充分だと思っていました。
ところが、帰宅してその本を読み進めるうちに、
涙が溢れてきました。
そこには、こう書かれてあったのです。
――何もしたくないのは、怠惰だからではない。
したくないことばかりしてきた結果なのだ。
その本は、これまで積み重ねてきた忍耐が、
「怠惰」という形で、現れているのだと、
気づかせてくれました。
その一文は、受け止めきれなかった現実と
夢とのギャップで、
凍り付いていた私の心に温かく響きました。
踏みつぶされた葡萄が、
暗い樽の中に押し込まれてから熟成するように、
私はこの言葉で、過去の苦渋も受け止められるような気がしました。
どんなに願っても、
もう新鮮な葡萄には戻れないけれど、
その時確かにあった輝きを、
熟成させていけるように、
今だから生まれる味わいを、
大切にしていけれたらと思っています。
もし今、
年齢を重ねるうちに、
心も身体も枯れていくように感じているなら、
そして、そのことで気力まで薄らいでいるとしたら、
どうか、これまで過ごしてきた日々を、
両手で、そっと温かく包んであげてくさい。



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