義母が認知症と診断され、
ほどなくして義母との同居が始まりました。
夫は長男でした。
そのため、 初めから他の選択肢はなかったかのように、
話は進んでいきました。
問題が解決したと、義母も、義兄弟たちも、ほっと安堵していました。
その安堵には、義母の生活への心配が軽くなったことだけでなく、
義兄弟たち自身の、心理的、そして経済的な負担がなくなったことも含まれていました。
私が50代に入り、三人の子どもにもようやく手が離れ、
これからは自分のために働きながら、
何か趣味でも始めてみようか。
そんなことを考え始めていた頃のことでした。
義母はそれまで、
弟夫婦の家事を手伝ったり、
それを気遣った姉夫婦と暮らしたり、
かと思えば一人暮らしを始めたりと、
落ち着かない生活を続けていました。
そのたびに夫は、義母に言っていました。
「一緒に暮らそう」
けれど、いつもそれは拒まれました。
私たちが結婚して直ぐに夫の事業が破綻してしまい、
経済的に困難な状況になったことで、
私たち夫婦と義母との間にできた
わだかまりのせいかもしれません。
それ以降、義兄弟たちは既にそれぞれ独立しているにもかかわらず、
何かにつけて私たちに経済的に頼ってきました。
義母に対しても、
住まいや病院費用などは、
私たち夫婦が負担していました。
決して軽い負担ではありませんでしたが、
夫にとっては、それが唯一の親孝行だったのです。
義兄弟たちは、義母の近くに住んでいたので、
料理の味がおかしくなったことや、
家事ができなくなったことをきっかけに、
義母を病院に連れていきました。
そこで下されたのが、認知症という診断でした。
そうして義母はこの時やっと、
「あなたたちと暮らしたい」と言いました。
料理に文句を言われ、
病院へ連れて行かれ、
認知症と診断されたあとです。
私たち夫婦が、
義母にとって最後の頼りの綱だったとしても、
不思議ではありませんでした。
「お母さんがそう言っているんだから」
夫と義兄弟たちのこの言葉で、
話は決まりました。
長男である夫にとっては、
ようやく辿り着いた“母と暮らす生活”の始まりでした。
けれどその一方で、私だけが素直に喜べずにいました。
実際に義母の身の回りの世話は、
私が担うことになるからです。
あの時、もし一言でも
「嫌です」と言えていたなら、
状況は少し違っていたかもしれません。
けれど、安堵する家族たちを前に、
私は曖昧にうなずくことしかできませんでした。
これまでの家族の関係や、
社会的に「長男の嫁」という立場から、
私が口にできる言葉はなにもありませんでした。
それでも当時の私は、
それが「間違った選択」だったとは、
まだ思えずにいました。
けれどこの小さな違和感は、
私たちを少しずつ不安定な方向へ向かわせました。
けれども数年後、
私は、その生活から抜け出すことになります。
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