育んだものはセピア色に変わって――
「苦労は買ってでもしろ」
私たちは、そんな言葉が当たり前の時代で育ちました。
我慢することや、踏ん張ることの中で、
支え合いや人情を学んできたのだと思います。
たくさん経験を積むことで磨かれると信じていました。
でも、苦労は疲労となり、
磨かれることはなく、傷ついてしまいました。
一方で、若い世代の人たちは、
自分の願いに正直で、
まっすぐ前に進んでいて、
とてもキラキラして見えます。
ある日、若い同僚が言いました。
「それ、無理してやらなくていいと思いますよ」
責めるでもなく、軽やかに。
その一言に、私は返す言葉を失いました。
無理をすることが美徳だと、
どこかで信じ込んでいたからです。
手を抜くことは悪いこと、
頼ることは弱さ――そんなふうに、私は自分を縛ってきました。
あるいは、集団の中で役割のない空白が、
自分の価値のないことのように思えて、
それに怯えていたのかもしれません。
けれど彼女は、
自分を守ることと手を抜くことを、
きちんと分けて考えているように見えました。
私はその姿を、
少し眩しく、少し羨ましく感じていました。
「私もそうしてみよう。」
そう思い立っても、
これまで染みついてきた生き方は、
なかなか変えられるものではありませんでした。
隣で大変そうな人を見かけたら、
手助けしないのは薄情なことだとも、
教わってきました。
時に、
「手助けとお節介の見分け方は難しいな」
そんなふうに迷ったこともあって、
人間関係は、いつも悩みが尽きません。
職場でも、つい、
つらい役回りを進んで引き受けてしまう。
だからといって、
誰かが手伝ってくれるわけでもなく、
一人だけしんどいことに、
苛立ってしまうこともありました。
こんなふうに以前はいつも、
「何かをしなければならない。」
という思いに追われていました。
そうして少しでも多くをこなし、
前に進んでいくものだと、
信じていました。
立ち止まることは、
怠けているように感じていたのです。
けれど今は、
多くの人がそれぞれに、
自分の価値を見いだそうと努め、
日々を輝かせているように見えます。
自分の価値は、
苦労を見つけることよりも、ずっと難しい。
そう感じるのは、私だけでしょうか。
昭和――
私たちが育ってきた時代。
私たちが願い求めてきたもの。
そして、育んできたもの。
それらは、矛盾と混乱の中で、
形になっていないかもしれません。
けれど、時が経っても、
私たちの中で今も息づいています。
もし、叶えられなかったことが、
心に影を落としているのだとしたら、
見つめ直してみてください。
それは、心が痛むことですが、
芽生えるのを待ち続けている種かもしれません。
答えは見えないけれど、
気分は、わるくありません。
ただの思い込みだったのかもしれないけれど、
必死に踏ん張ってきた時間が、
今は大切に思えるからです。
私は、
セピア色に変わっていくその記憶の中から、
「もう遅い」と、
片隅にしまい込んでいた夢を取り出してみました。
完璧に形にできなくてもいい、
心惹かれるままに、今だから出来る事を、
これから、一つ一つ、紡いでいきたいと思います。
私たちがこうして生きてきて、半世紀が経ちます。
皆さんにとっては、昭和はどんな時代でしたか?
そして願いが叶うのだとしたら、
どんなことを望みますか。



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